うちの末娘は、小学校時代、高学年に交通事故に遭ったことから勉強が遅れがちになり、中学に入った頃から次第に不登校になっていきました。
元々は性格面で問題のあるような子ではなく、私自身も人一倍愛情をかけて育ててきたので、家庭生活に原因があったとは思えません。それで、当時の学校内の状況等がどんな風なのか、私なりに担任に話しをしたり、学校HPにメールのやりとりをしてみたりで、手を尽くしてきました。
その結果、私が真剣になって娘の不登校に対処しようと試みたところで、
「この学校では無理だ。」という落胆しか感じませんでした。
最後には「クラスの担任の先生を変えて欲しい」とまで訴えにかかりましたが、そんな要求が通るはずもありません。
学校というものは、「教育」の場ではあるけれど、私達の学生時代より、更に「学力」だけを大事にする場(塾通いをしている学力の高い子供に合わせて進行していくと知りました。)「先生の言うことを聞くいい子」だけが居心地のいい場=問題を抱える生徒には無関心でいたい場であると、痛感したのでした。
ですが、私はそんな学校の様子を知ったおかげで、娘に無理矢理学校へ連れて行く、という強制はしませんでした。特に嫌がらせを受けたり、いじめがあったわけではないので、時折保健室などに登校することは出来ていて、なんとか卒業だけはすることができました。
途中、同じように不登校の生徒を知り、その子はクラスの子達からのいじめが原因でしたが、やはり私と同じように学校に対する不信感が募ったのだと思います。最終的には「転校」という手段を選びました。
もしも、私自身が引きずってでも、しかり飛ばしてでも学校につれて行ったとしたら、今現在のように、仲の良い親子関係は築けていなかったと感じています。
学校は人生の中の「学ぶ」場であると当時に、そこで学ぶないことを学ぶ場でもあるとも感じます。つまりは、どれもが「経験」です。
広い視点に立つなら、人生そのものが学ぶ場であり、その中で「自分が何を経験して生きたのか」ということが大事であると思います。今は、学生時代に学問に秀でていなくても、学ぶ意欲が湧いた時にいくらでも学ぶことが可能です。
また、不登校の原因自体様々で、親が知らないところで「正義感」ゆえに狭く閉ざされた空間に拒否反応を示す場合もあるでしょう。子供がそう感じたなら、信じることも大切です。
どんな人も、仲の良い関係なら信じあえます。私はいつも娘の味方でいたいと思ってきました。その姿勢を崩さない限り、大切なことは一緒に学び続けていけます。一方、どうにかこうにか学校に「行かせる」ことができたとしても、そこから何も学ぶことができないどころか、人に対する不信感だけが増幅し、学生時代を過ぎてから一気に問題に直面することもあります。
その時にきちんと向き合ってすることは勿論ですが、時には子供の抱える問題に向きあうことで、親自身も家族問題や人生の中で見送ってきた課題を提示をされることもあるでしょう。
「不登校」は、人生の中の一つの壁に直面したに過ぎません。かつて不登校であった人が、今は立派な経営者になっているという話も少なくありません。それは才能だけはなく、一時的に「問題」とみなす、否定的な現象が、後の「贈り物」となることも多々あるからです。
その人だけが学び得る何かが必ずあり、不登校は早く訪れた機会に過ぎないのだと「肯定的」に考えることも大切なのです。
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