私は現在30歳の女性です。私は中学三年生の時に三ヶ月ほど不登校になりました。
女子特有のグループから外されるいじめを3年間受け続け、とうとう友人と言える友人が誰一人としていなくなってしまったからです。
お弁当を一緒に食べる人、修学旅行で同じ部屋になってくれる人、移動教室を一緒にしてくれる人……様々な場面で私は孤独になりました。そんな私についたあだ名は”一匹オオカミ”でした。
メールが来たと思えば、私の悪口を箇条書きにした文章。
学校に行って目が会ったと思えば、「気持ち悪い」と言われる毎日。
「ちょっと来て」と言われ向かってみると、大勢の元友人たちから罵倒罵声のリンチ。
”不登校”の選択肢をくれた大人たち
「明日が来なきゃ良いのに」と、思っていた毎日でしたがそんな私に”不登校”の選択肢をくれた大人たちがいました。
当時、私が相談したのは
- 担任の先生
- 保健室の先生
- 両親
担任の先生
当時は”不登校”がまだまだ認知されず、不登校=進学に不利という認識がありました。
だからこそ担任の先生もどうにか学校に通い続けて欲しいと願っていました。
特にいじめ問題は大人が仲裁に入ったところで状況は悪化する可能性の方が高いです。
そういうことも含めて担任の先生は”相談”には乗るけど、根本的な解決までは指導してくれなかったのです。
とはいえ、教室から抜け出すこと、遅刻・早退などをしても強く注意されないなど、担任の先生の配慮があってこそ実現できた行動は山ほどありました。
保健室の先生
「教室へ行きたくない」と感じた人が行く場所といえば保健室ですよね。私も何度かお世話になりました。
一人の大人として、さらに臨床心理学や教育心理学など様々な角度から意見を言ってくれる保健室の先生はどんな人にとっても大切な理解者になってくれます。
私の場合、特に話す元気もなかったので”ただここにいたい”という気持ちをちゃんと理解してくれた保健室の先生は、何も聞かずそっとしておいてくれました。
私が話せば耳を貸してくれる、話さなければそっとしておいてくれる、この環境に何度も救われました。
両親
私が”不登校”を決意できたのは、両親が理解してくれたからです。
両親へいじめを話せるようになったキッカケは、大好きなお弁当を残すようになったことに母が気付いてくれたことからでした。
当時いじめが過酷になっていた私は、どこにも属すことなく一人でお弁当を食べていました。
母が作ってくれたお弁当が大好きだったのに、その状況から食欲が落ちて一人前のお弁当を食べ切ることができませんでした。
これをキッカケに両親にいじめのことを赤裸々に話せたことで、「学校に行かなくても良いよ?」と言ってもらえるようになりました。
もっと早くから不登校になっても良かったんじゃないか?
私の場合、中学校から進学率の低い少し遠い私立高校の受験(推薦入試)を目指していました。
推薦入試では内申書が重要になる分、受験が早い時期に実施されるため、合格してしまえば自由の身でした。
せっかく三年間いじめに耐えて学校に通ったんだから……と推薦入試までは頑張って通い続けました。そして見事合格を果たし、そこから学校に通うのをやめました。
しかし30歳になって思うことは、当時もっと早くから不登校になっても良かったんじゃないか?と。
いじめや人間関係の揉め事は、本人たちが努力したからといって解決する問題ではありません。どうやって歩み寄っても、理解できないことは山ほどあります。
だからこそ、そこは割り切って、不登校を選んでも良いのではないでしょうか?
大事なのは不登校を選んだ後の気持ち
むしろ不登校を選んだ後の気持ちの方が大切です。
不登校を選んだ後って「みんな学校に行ってて偉いな」「私なんか不登校だからダメなんだ」と思うはずなんです。実際に私も思いました。
しかしそこで不貞腐れる必要はありません。
不登校を選んだのだから、次は何ができるかな?高校進学以外でもやれることはないだろうか?
こんな風に不登校を選んだことで前向きになれたら一番最高だと思います。
今の世の中は昔と違って、サラリーマンやOLになることだけが仕事ではありません。
好きな人と好きなことをして稼ぐことができる時代になりました。だからこそ不登校も歴としたステータスになります。
「不登校を選んだから**ができた!」
これをたくさん積み上げて、自分らしさを受け入れてもらえる世界に早く出会いましょう。
もぐた<ブログ/Webライター/サイト制作のマルチフリーランス>
同性愛者。LGBT/FtX(体は女性・心は無性別あるいは両性類)。
20代に3度就職をするも全てブラック企業というあり得ない引きから、”社会不適合者”と割り切りフリーランスの道へ。
LGBT、働き方、料理、アクティビティなど、多彩なジャンルで執筆活動中。
Twitter:@mogupuchi_home